3年も経ってる

またかなり放置したものだ

再活用できるかな


さて
メモ

韓国での冬季五輪が盛り上がる中
2020の東京オリンピックを見据えて
いろいろあるが

今年は「身体」を扱う展覧会で大きなものが2つある

横浜美術館で3月から「ヌード〜英国テート・コレクションより〜」
http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20180324-496.html

西洋美術館で10月から「ミケランジェロと理想の身体」
https://artexhibition.jp/michelangelo2018/

これは、一見、オリンピックと関係ないようでいて
「理想的な身体」という
なんというか・・・ナチスドイツの称揚した芸術のような

というようなことをエッセイでまとめられたら面白そうなんだけど
身体論の基礎的な部分をある程度さらわないと
なかなか難しい議論ではある

アートと現代アート

アートとは何か?
現代アートとは何か?


アートとは
根源的な欲望、特に「暴力」に対抗するため、人間が産み出した手法。
根源的な孤独、生と性と死について、宗教とならぶ解決策の1つ。
(解決・・・でもないんだけど・・・何だろう?)
「今ここ」を描く、「未来」を描く、いずれにせよ、新しい視点を提供するもの。


アートも宗教も、ある情報へのアクセスキー。明文化されない情報の塊「本質」へのシンクロを目指す。祝祭、共感、受容、新しい可能性の物語。
アートも哲学も、「本質」へリーチし、表現するための方法論。感性、認識、分節、可能性に開かれた物語。


現代アートとは何か?
アンフォルメル以後」やMADの先生が言う通りだとするなら
産業革命」以降を「近代(モダニズム)」とし
それ以降にヨーロッパを中心に発生していった
アートのあり方またその歴史や言説(評価やそのストーリー)の上に
新たな価値を提示していくもの。
というトコロだろうか?


私は、それには懐疑的ではある
むしろ、先生が取らなかった方の解釈
「現代という時代の中で作られるアートは全て現代アート
である
というスタンスの方が
むしろ、しっくりとくる。
つまり
まず、アートの本来的なあり方が求めらるのであり
前後の関係性など、制作や評価の一側面でしかないのでは?ということ
本質的な「内容」「表現」「技術」が時代に対して
いや「時間」に対して
どのような「強度」を持つのか?ということではないのか?


感性をゆさぶるもの
技術を超えて見るものに説得力をもって訴えかけてくるもの
そして、時代によって評価が変わるもの
(いや、そも、見るタイミングによって、見え方などすぐ変わる)
アートは、作品そのものの力で存在していくべきなのではないか


繰り返すけれど、歴史的なコンテクストに「現代アート」を委ね過ぎても意味はない。
という前提のもとに
それでも、ある側面で、作品に対峙する時、そのような目も必要となる。
というスタンスで
勉強を進めていこうと思っている。

マヴォについてのメモ

マヴォ
Mavo


大正期新興美術運動における代表的な美術団体。
戦前日本のダダ(美術系統)のグループと位置付けられている。
1923年6月 結成⇒7月 第1回グループ展を開催「マヴォの宣言」
1925年に三科展乱入事件を起こし解散
村山知義を中心に、旧未来派美術協会の柳瀬正夢尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎らが集って結成。
絵画だけにとどまらず、パフォーマンス、デザイン、建築分野でも活躍


「私たちは尖端に立つてゐる。そして永久に尖端に立つであらう。私たちは縛られてゐない。私たちは過激だ。私たちは革命する」


●時代背景
第一次世界大戦(1914〜18年)が終り
アメリカは大消費時代へ、日本も戦勝国として文化的発展を享受していたが、20年代に入ると世界恐慌の時代に入る
普通選挙の導入にともない、市民の政治意識の高まりと共に「社会主義」の台頭が見られた
関東大震災直前の大正ロマン的な雰囲気が残る時代
1923年 関東大震災
1926年 大正から昭和へ


●「革命」とは
マルクスの「資本論」が書かれたのは、日本の文明開化の頃(1860〜90年代)
ロシア革命は1917年
マヴォの発起人 村山知義は1922年にドイツ留学している
(ちなみに、1922〜23年のドイツは「ワイマール共和国」時代で、ハイパーインフレが起き、何度か社会主義化を試みるが失敗し、ファシストの台頭前夜という状況)


●大正時代の日本画
大変興味深いのは、日本のアートシーンのメインは
江戸時代までは「日本画」だったわけで
その場合、アーティストというよりも技能集団としての「〜派」や
浮世絵に関わる専門家集団のようなものがメインだったと考えれる。
(まれに、伊藤若冲のような不思議な「アーティスト」が発生していたようだが)
それが、文明開化以降は、「西洋画」の輸入に際し
国家レベルでの活動が必要となり、おのずと「組織」主体の
アーティスト集団が誕生していく。
(実は、ヨーロッパのアートシーンも「近代」以前は同じような技能集団だったワケだが)
その後、ヨーロッパの動向にリンクしていく形で
「反組織」的な集団が登場するのだが
それでも、「集団」なのが面白い。
2000年代までのアーティストは、より「個人化」というブランド戦略に
振れてきたように感じる。
(反転、今はグループや企業体へと回帰している)
つまり、何が言いたいかといえば
アートシーンの特徴や時代拝見も世界横断的にフラットに
そして時間軸もその前後で比較すれば見え方も違うのではないか?

その上での、「反国家主義を宣言するようなアーティスト集団」を評価すべきだが
反面、アートそのものを、本当に「歴史的な分析」だけで見るべきなのか?という
アンフォルメル以後」に対するアンチテーゼというが疑問譜もあったりする。


1920年代の世界のアートシーン
1919年にドイツ(ワイマール共和国)に設立された「バウハウス
アートはヨーロッパの時代、特にドイツ・パリを中心に前衛芸術(ダダ、構成主義シュールレアリスムなどが台頭)


【分析】
時代背景とマヴォの設立者である村山知義のドイツ遊学経験を踏まえると
ドイツのアートシーンの影響下において、社会主義が台頭してきた時代に
マッチした芸術運動であった、というよりも
「尖端」とはトレンドの最先端に過ぎず、「過激な革命」そのものがトレンドだったのではないか?とすら思えてくる。
「トレンドを作る」という意味で、「マヴォ宣言」を見れば
非常に秀逸なマーケティングのようにも感じられる。
つまり、「私たちは」と宣言/線引きする事でブランド化を図り
宣言そのものは、企業のブランド・ステートメントと同じではないか?
つまり、作家・団体のブランド化であり、商業化と見る事も可能なのではないか?
という事


●参照(1920年代に活躍したアーティスト)
コンスタンティンブランクーシ(20世紀の抽象彫刻に多大な影響を及ぼした彫刻家)
 金色の鳥の羽の彫刻の人
パウル・クレー
フランシス・ピカビア
マリー・ローランサン
ヴァルター・グロピウス(「バウハウス」の創立者
藤田嗣治
ミース・ファン・デル・ローエ(20世紀のモダニズム建築を代表するドイツ出身の建築家)
クルト・シュヴィッタース(ダダ、構成主義シュールレアリスム
ヨハネス・イッテン
オスカー・シュレンマー
アルトゥーロ・マルティー
マックス・エルンスト
モイズ・キスリング
ジョアン・ミロ
アドルフ・ムーロン・カッサンドル

2015年GW 青森の旅(1)

2015年のGWは青森へ辿り着いた。


十和田の現代美術館と奥入瀬散策から青森市
青森市からバスで県立美術館と公立大学内のACACへ


今回も気ままな一人旅
電車とバスを乗り継いで
東京から見たら「秘境」だ
(住んでる方には、日常だとしても)


東京から移動時間3〜4時間と考えると
台湾・香港あたりには行けるわけで
そこと比較して、情報量がやたら少なく
「ひとまず行ってみる」しかなかった。


不思議なところだった
人の密度に対して、思いのほか人工物が多い?
だらだらと続く「郊外」の風景
人も淡白で、これ!という美味しいモノもなく、サービス精神とは無縁。
でも、決して「冷たい」わけではない。
それは、ある意味、今の時代に対して凄いことというか
軽くカルチャーショックだった。


さて、今回の旅も「アート」を追い求める
3泊4日の旅だった。


1日目は十和田
七戸十和田駅からバスで市街地へ30分以上
夕刻前の時間に着いた


十和田市現代美術館
http://towadaartcenter.com/web/towadaartcenter.html
2008年に開館した現代アートに特化した美術館

常設展の作品が、屋外に設置されていたり
美術館に設置されているものも、外部から一部を見ることができる。

ロン・ミュエクの巨大なリアリティ彫刻が出迎え
1つのエリアに1つの作品という贅沢な展示を巡りながらも
全体としては、POPで若々しく明るかったりクリアなイメージの作品が多いと感じた。



約23億円の建築費の多くを六ヶ所村などの核燃料・原子力問題に絡むお金で建てたというが
2008年の開館から約7年
小さな町に、私も含め少なくない人間が十和田を訪れているけれど
さて、二度、三度と訪れる人がどれ程いるだろうか
また、現代アートに興味を持って十和田に訪れる人がどれ程いるだろうか


現代アート」の力、作品のキャッチーさ
そして、美術館自体の価値をどのように捉えるべきだろうか


常設の作品ということは、「購入」したということだけど
作品の展示方法からしても、多くの美術館のように
作品の入れ替えが容易ではない構造になっている。
その作品が十和田にある意味、そこで作品が年月を経てどのようになるのか
5年後、10年後、その先は?
いや、むしろ、何年か後に大幅なリニューアルを行うのか?
例えば、日本の「税金美術館」では、あまりやらない
作品の売却を行うとか?
どちらの選択とも違う何か?


「ものがたり」はつづくだろうか?
http://artstowadaoirase.jp/anthology/
今後のストーリー展開を注視したい。


長くなったので
別記事へ

テキストの書き方メモ

論理的に考えたり、話したり、できない方ではないと思っているけれど
文章をきちんと書いた経験がないため、批評やコラムや論文など文章を書く事に対する自信がなく
トッカカリみたいなものがないと、本当に何から書いてよいか解らなくなる時がある。


今日は、批評家塾なるもののスタートアッププレゼンを聞いてきて
いろいろ思うところはあったにせよ
自分が何かを書く際のトッカカリというか
これを書けば良いかも、と感じるヒントが得られたのでメモしておく。


●ファーストインプレッション
●批評対象の内容・構造
●とりまく状況・引いて世界では
(歴史、思想史、現在の問題、世界情勢など)
●批判的な視点
●提案・未来へ?
(伝えるべき内容)

感想メモ

第18回文化庁メディア芸術
http://j-mediaarts.jp/


今週末は、2日連続で六本木に行き
メディア芸術祭を見てきた。


昨年に比較し、国立新美の方の展示は
解りにくく、人の流れが上手くできていないようだった
これは、まさにキュレーションの問題だな、と実感した。


アート作品としては
やはりライゾマの真鍋大渡さんと坂本龍一さんの
「センシング・ストリームズ―不可視、不可聴」
Cod.Actの「Nyloïd」が素晴らしかった。


特に「Nyloïd」の実演を見たけれど
まさに、スペクタクルを超えた「超越性」や「恐怖」のようなものを感じる作品で
一見「無駄」にも思える「アート作品」という位置付けからの
動きはじめたら、その大きさと動きの不規則性と音の相乗効果で
暴力的な感触をともなう感動のようなものを受け取る事ができた。


今回は、特に映画館で映像作品を見る機会を得て
海外と国内のアニメ作品、海外の実写作品を鑑賞したが
アニメに比べて実写の難しさを感じた。


個人的に、実写作品を見ると
寓意の表現を現実との差異において作品を認識するような
何というか、英語を聞いてるけど、結局、日本語に一度変換して理解するような
曲折的な理解になりがちで
イマイチ、入りこめないところがあった。
(特に、今回見た作品が意図的に感情移入を排し、そのような「仕掛け」をしていたと思う)


片や、アニメーションは寓意がまさに「アニメの表現」に直結しているので
映像作品として、入りやすさがあった。


特に、今回見ることができた作品は秀作が多く
個人的には
アニメ部門の大賞をとったAnna BUDANOVAの「The Wound」
日本のテレビアニメからの「キルラキル」「残響のテロル」のエンターテイメント性と完成度
中編の「The Stressful Adventures of Boxhead & Roundhead」は、全体の構成の完成度
それぞれ、凄味のある作品だった。
(「残響のテロル」はテレビ放映を見ていたので、個人的に嬉しかったけど「サイコパス」は?)


個人的に「キルラキル」は面白そうなので
シリーズで見たいな、と思う。


来週もいくつかアニメ作品を見ることができそうなので楽しみだし
六本木でのMEDIA AMBITION TOKYOも合せて見に行きたい。
また、3月末からは恵比寿映画祭もはじまるので
この春は映像作品を堪能できそう。