年初は近代美術

年初のアートは大好きな東京国立近代美術館から。
常設展示および奈良原一高の写真展「王国」が無料だった。
(おかげで混んでた)


常設展示は、特に奈良原と企画展の高松次郎の世代のアートを展示していた。
面白いと思ったのは、荒川修作の1966年頃の作品「アルファベットの皮膚 No.3」
記号化というコンセプッチュアルな作品だけど、色使いのポップさや部屋の中に猫がいたりとユーモアもあり、今見ても惹かれるものがあった。
反対に、大御所だけど、もはや博物館的な意味しかないよな、と感じたのがラウシェンバーグの「ポテト・バッズ」
コンセプトもありきたりだし、表現として面白さも美しさもイマイチ。同じコンセプトなら、先日のDIC川村美術館で見たステラの立体絵画の方が断然良い。
もはや、アメリカの古い段ボールである、という珍しさとラウシェンバーグという大御所が作った、という2点において歴史的な意味合いがあるだけに感じてしまう。
そう、今回の展示に向き合う中で、やっぱり私個人としては、コンセプトアートにも「表現」を求めているんだな、という事がわかった。
アートは、文章と同じ、音楽と同じ、その時代に対する問いかけや回答や考えの表明でも良いけれど、時代を超えるのは「表現」そのもの。そこに何と読みとるか、は時代が変われば自ずと変容するはず。
時代を超えて評価の対象となるのは、表現としての弾力性があるもの。


奈良原一高の「王国」と銘打たれた写真群に向き合い
私は、すごく不思議な気持ちになった。
映っている対象(修道院の僧や監獄の女性など)に共感できない=精神的な乖離
(言わんとしているメッセージは何となくわかるような、わからないような)
撮影された時間からの隔たり=肉体的な乖離
目の前にある割と小ぶりなオブジェクトとしての写真(確かに、構成や質感など表現として素晴らしい部分もある)
さて、私は何を見ているのだろうか?
時空を超えて、そこに提示されるメッセージをきちんと受け取っていたのだろうか?


引用されたアルベール・カミュの中篇小説集『追放と王国』(1957) の一説
「Solitaire(孤独) と読んだらいいのか、Solidaire(連帯) と読んだらいいのか、分からなかった。」
(そこからさらに引用)


まさに、写真に写った被写体たちは、1950年末の当時生きていただろうし(物語ではなくリアルだったのだ)
そのうえで、積極的にか消極的にか、「世間」を離れて生きている(た)。
そんな彼らはどこまでも孤独でありながら、そこに共に空間を共有する者との連帯感もあるのか。
ただ、時間を隔て、奈良原のフィルタを通して提示された今回の写真に対して
リアルではなく、寓意というか物語のようなものを感じてしまったのも
個人的な体験として、不思議な感じを残した一因かもしれない。


反面、今、奈良原の写真が近美から提示された意味を考えなくてはならないとも思う。
約60年前のその時も、2015年となった今も、いや今だからこそ
共通するメッセージとして提示された可能性がある。
それは、まさに「孤独か連帯か」という点を真摯に問われる時代なのだという事がかもしれない。
奈良原の「王国」から約20年後にフーコーが提示した近代の「監獄」に入っている現代人が、鏡として向き合っている。と考える事もできるかもしれない。


常設展
http://www.momat.go.jp/Honkan/permanent20141111.html


奈良原一高「王国」
http://www.momat.go.jp/Honkan/naraharaikko/index.html

2014-09-09につづき
最近の読書歴


amazonで2014年に購入
現代アートビジネス (アスキー新書 61)
小山 登美夫

                        • -

マイケル・フィンドレーから続けて
アートビジネス本をサッと読んだ。


アートの価値 マネー、パワー、ビューティー
マイケル・フィンドレー


ドゥルーズ 流動の哲学 (講談社選書メチエ)
宇野 邦一

                        • -

12月31日から読みはじめ、1月2日現在で
1/3しか読めていないけど、すごく面白い。
ドゥルーズって、こんなに前向きなの?っていう


amazonで2015年に購入
美のイデオロギー
テリー・イーグルトン


キーパーソンで読むポストモダニズム
ベルテンス,ハンス


●図書館
ポスト構造主義 (図解雑学)
大城 信哉 (著), 小野 功生 (監修)

                        • -

ポスト構造主義って・・・という概要をつかむために。


●35蔵書
90分でわかるデリダ2
ポール ストラザーン (著),浅見 昇吾 (翻訳)

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すごくわかりやすいが
デリダの本当のポイントとなる部分は少しだけ。
でも、サブテキストとして、デリダを把握しておきたかったので正解か。


現代思想の50人―構造主義からポストモダンまで
ジョン レヒテ (著),山口 泰司 (翻訳), 大崎 博 (翻訳)

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凄く素敵な内容のはずが、超難解!
思考というか文章が偉くまわりくどい。
原文のせいなのか?
   
  

メモ

スーザン・ソンダク⇒シカゴ学派の影響がある?ユダヤ系リベラルな女性文筆家
リチャード・セラ⇒現代彫刻の巨匠、大きな抽象的な彫刻が特徴
マイケル・フィンドレイ⇒60年代を中心にカルト的に活躍した映像作家
ジョン・バルデッサリ⇒アメリカのPOP系現代アーティスト

アートとは

価値①
「表現」を通して個人的なインスピレーション(直観的なひらめき)やイマジネーション(想像/創造)を得られるような体験をすること。その依代となるもの。
音楽や踊りや小説やその他の諸々も、目に見えるもの、聞こえるもの、そういった描写可能な「意味」を超えて、個人に何かを喚起してくれるもの。
それは、ある種の「癒し」であり、理性からの一瞬の逸脱=変性意識状態。


価値②
新しく価値体系を更新する事ができる「作品」。
個人的や社会にパラダイムシフト(価値観などの革命的または劇的変化)を引き起こす創造性。
現代アートに多い価値ではないかと考えられる。


価値は、飽くまでも観る、聴く、読む、体験する個々人のもので、その評価は個人やその時の状況により変わる。ただ、一般化して描写的に評価をする場合の評価軸としては、今は、2つ挙げられる。
評価軸『表現』⇒美しさ、完成度、説得力、または新規性(表現における新規性は、ほとんど「開発」だ)。
評価軸『メッセージ』⇒批判性、新規性、または密度。そして、普遍性。
これは、あくまで二次手的なもので、理性と理解の部分。


絵画や彫刻などが、特に売買されるのは、価値①の「依代」としての機能の所有に向いていること、またある程度ポータブルであること。が理由と思われる。

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その定義から、リー・ミンウェイ氏の作品を考える時、例えば、食事や睡眠に関する作品の展示は「アーカイブ(保存記録)」ではあっても、参加した者にしか作品としての意味を成さない。箱に思い出の品が入っている作品については、そこに入っている品々がリー氏の個人的な物品過ぎて、作品が観る者の依代にならない。今回、森美術館で展示された中で、私の定義した「アート作品」に該当したのは、手紙だった。とくに、手紙は日本人の感性にとてもマッチしており、感情やいろいろな思いを掻き立てる依代としての機能を大いに発揮することに成功していると思われる。花とリビングについては、面白いが非常にハードルの高い作品。彼の作品は、一部「日常を見直す」という趣旨の部分が【価値②】に近いのだが、概ね【価値①】に属する系譜かと思われる。

今回、リー氏の作品の「解説」的に展示されていた、イヴ・クラインジョン・ケージ、アラン・カプローが面白く感じたのは、圧倒的に【価値②】の部分の強さだ。作品を通して、新しい「価値」や「観方」を体験として一瞬で「理解」させ、それまでの「理解」を超えて、更新してしまうのだ。凄いとしか言いようがなく、センセーショナルに受け入れられ、その後のリレーショナル・アートやテーマ性の強いアートを喚起していったのではないか?と考えられる。

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ここんとこ、ずっと「アートとは?」と考えてきて、やっと、自分なりの答にたどり着いた気がするのだけど、図にまとめてしまうと、何だか胡散臭いような気もしてくる・・・。
ひとまず、例として作った評価図は「個人的な」評価だ。
例えば、「アート・ブリュット」などは、「アート・ブリュット」という言葉による作品群へのパラダイムシフトは起こったが、個々の作品においては、横軸はあくまで【価値①】のイメージの方へ伸び、縦軸は【表現】の評価で別れる部分となる。(メッセージ性はあるが、あくまで個人的なものが多く評価対象外である事が多い)

関係性の美学について

現代アートの構成要素が「批判性」と「表現」であれば
リレーショナル・アートの構成要素は「批判性」があり
その「表現」として参加を促す仕掛けがあると考えられる。

批判・批評/テーマ・コンセプト⇒メッセージ化⇒表現/イベント?
何が「芸術性」として認めれるのかが問題

また、「美学」というからには「美しさ」は何に宿るのか?という
素朴な疑問が残る。
考えうる可能性としては、その「表現」つまり、「仕掛け(方)」に
対して、評価しえる「美」が存在するのだろうか?

リレーショナル・アートにおける表現の難しさは
そのテーマ・コンセプトが明快に伝わらなければ
「何のイベントなの?」で終わってしまうし
反対に、その部分を明確化すれば、その批判性が反転し
「説教くささ」「偽善的」となりえると思われる。

また、その「参加型」というのが、またやっかいだ。
参加しないで、外側から「見る」ことも、またその作品を体験する
1つの手段としてあると思われるが
最終的な完成形としては、参加する事における体験の総体として
成り立つ作品だとしたら、個人的にはすごく「強制的」だと感じる。
つまり、参加する方法を指定されているという事は
作品との距離感を参加者が決められない、という事だから。

古典的な表現(批評性の低い、表現そのものの追及をその可能性としているもの)以外の
現代芸術の多くは、見る(観る)、聞く(聴く)、触る、踊る?などの
行為を観者(参加者)に委ねるものが多いと考えられる。
そして、観者(参加者)のベースとなる教養、体調、そのタイミングの気分などで
対象となる作品との距離感を変える事が可能という事。
では、参加型の作品においては、同じアプローチが可能なのだろうか?
また、参加する事が作者の批評性を認めない、または違う解釈のもとに
参加する事が可能なのだろうか?
例えば、昨日、紹介された田中功起さんの絵画を持って街を行進する作品
あれに「参加する」という事が、参加者にとって一方的な意味付の中に
強制参加させられている事にならないのか。
また、途中で参加したり、離脱したり、まして自分のペースで行動したり
する事が可能なのだろうか?
そういう事ができないのであれば、参加型のそれは「単なるイベント」であって
作品ではないのではないか?という感じもしてくる。

そもそも、参加型の作品自体、もはやそんなに流行っていないのではないか?
とも感じてはいるのだけれども
どうなのだろうか?

リレーショナル・アートが出てきた背景としてインターネットをはじめとした
バーチャルなコミニュケーションとリアルな世界でのコミュニティの分断がある中
「関係性」への批評行為として、リアルな場の提案というカタチで
1990年代を中心に、参加イベント型の表現が出てきたものと考えられる。

そして、2014年現在、その批評性が何をもたらしたのか。
また、批評性+表現=芸術としての普遍性を持って、評価の対象となり得ている
作品はあるのだろうか?

ちょうど、森美術館で「リー・ミンウェイとその関係展」をやっているが
2010年代という時代の中で、関係性の美学が成立しえるのか
また、今後のアート界において、可能性として残り得るのかどうか
この目で見て、参加し、体験し
またキュレータートークなどの解説を通して
自分自身の疑問に対する答が得られるかどうかを考えたい。

めも

テーマ
現代日本における現代アートは可能か?
誰のためのアートか?

日本人の求めるアートとは?ニーズから考えるアート
ニーズ:新世代(40歳以下の)コレクターは存在するのか?
アートは投資対象なのか?コレクションの対象なのか
ニーズ:「飾る」という機能 ⇒ 11/2の答え ⇒ 依代を所有する
自分自身、持ち物、自宅、オフィス、ホテルなど商業施設、公共施設や空間
そして、これからはバーチャルな空間(一番小さな単位でスマホの壁紙とか)
ビジュアル以上の付加価値
美術館におけるアート作品は「飾る」ためのもの?
ニーズ:美術館・ギャラリーへ来場する人とは?
来場者数と構成比の分析
ニーズ:社会インフラの中での現代アートメセナ
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO40978220R00C12A5000000/
http://biz-journal.jp/2013/09/post_2884.html
メセナが手法を超える可能性、アートのインフラとなり得るか
ニーズ:作りたい、作らざるをえない、作家の自己実現
ニーズ:「作る」という体験を通して得られる効用<作業療法的アプローチ>
<対比>なぜ、欧米には湧いて出る程のアートがあり、日本ではマンガ・アニメなのか?
⇒湧いて出るのには理由がある。それは、環境やインフラの差ではなく、ニーズによるものと考えられる。
日本のマンガやアニメは、作り手も受け手も同じニーズに支えられている。
リビドーの対象の記号化と自己実現欲求のストーリー化。
それをニーズ(欲求)として共有しながら、盛り上りながら、翻って自己の中で完結可能なものとして取り扱っている。
それでは、なぜ、欧米には作家およびコレクターが多いのか?得られるモノ(ニーズの対象)は何か?
仮説と反証を書き出してみる
仮説①共通したニーズが「お金の獲得」である。
仮説②共通したニーズが「新しい価値の創造」である。
仮説③共通したニーズが日本におけるマンガ・アニメと同じ。
仮説④アートのインフラがアートを求めるから。

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反対側から考えてみる。
日本において現代アートが盛り上らないワケ
(もちろん、一部好きな人はいるが)
現代アートの作家に対するイメージ
「新しいモノ」へのコミュニケーション
共有化への強いニーズ

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アートとは?
アートの対象分野とは?
具体的な制作指示を受けず、作家が作家の表現したいアイディアを実現した表現が作家の名のもとに発表され、それを鑑賞者がアートと認知した対象がアートと考えられる。
自説で言えば、アートとは作品を介してのコミュニケーションまたは、何等かの感情の共有や伝達の可能性だと考えている。
絵画、イラストレーション
彫刻、インスタレーション
小説、詩が良いならマンガは?
音楽
劇、バレエなどの身体表現
写真、映像、アニメーション
では
建築、ファッション、プロダクト、工芸
は、アートか?

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自意識を持つ人間は、根源的に孤独だ
孤独を克服するため、人間関係の維持が得意な人は友人や恋人、新しい家族などコミュニティを作るだろう
では、コミュニティへの参加が苦手な人はどうだろうか?
自分の時間を充実させるだろうか?
新しい風景を求めて旅をするかもしれないし、テレビやインターネットなどの外部情報に浸るかもしれないし、ゲームやパチンコなどで脳を楽しませるかもしれない。そういうタイプの人は、情報に飢えている。脳を刺激し続けたいタイプ。鑑賞者としての強いニーズを持っている。
コツコツと何かを作る事に集中する人がいるかもしれないし、妄想や想像を何かのカタチにしたいと考えるかもしれない。インスピレーションを受けたものを、カタチに残しておきたいと思うかもしれない。

ニュースより

宮城教育大准教授の村上タカシさんによる、福島県内の土壌や土囊(どのう)袋を組み合わせた「作品」はアートか?

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【話の概要】
東北電力仙台市青葉区の電力ビル内で運営するホールで、美術家で宮城教育大准教授の村上タカシさんが、福島県内の土壌や土囊(どのう)袋を組み合わせた作品を展示しようとしたところ、ホール側から「不審物と思われる」として一時、撤去を求められたことがわかった。両者が話し合った結果、別室に作品を移して展示することで合意した。
村上さんら日本とカナダのアーティスト8組が「中立の立場でエネルギーの未来を考える機会にしたい」と、「POWER TO THE PEOPLE」展を企画。被災地の電力会社施設での発信に意味があるとして、東北電力の広報・地域交流施設「グリーンプラザ」のホールを借りていた。
朝日新聞デジタル2014年10月13日17時41分配信 石橋英昭)

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写真を見る限り、コンセプチュアルアートインスタレーション。と言ったところだろうか?


今回の件で、気になった点が2つある。
1)件のモノは「アート作品」なのか?
2)件のモノは「撤去」対象だったのか?


1)については、アートまたはアート作品とは、作家/表現者の側のみが「これはアートだ」と言って成立するものなのか?という部分に根幹があり、それを是とする人からしたら、誰が何を持ってきても、その対象を「アート」だと言われれば受け入れる事が求められる。
しかし、私個人の考えからすれば、アート(作品)は、鑑賞者(受けて)側からも、その対象がアート(作品)として、何らかのメッセージを発していたり、感動をもたらしたりする「効用」または、作品とのコミュニケーション(または、その可能性)が成立する時に、アート(作品)として認知できるものとなる。
ゆえに、件のモノは、少なくともホール管理者にとっては、説得力あるアートとして認知されなかった時点で、その「作品としての力」(説得力)が弱かったのではなか?と考えられる。
(その後、公開されて圧倒的多数からの指示があれば別だけども、ネットの感想も否定的なモノが多いようだ)
とは言え
2)について、不思議なのは、ホールの管理者側に、「撤去を求める」という事が可能な事である。
何故、それが可能なのだろうか?
ホール側は、件の企画展に対して、どのような条件を持って貸出たのだろうか?その条件の何に、件のモノは払拭したのだろうか?
貸出および展示条件に「管理者が『不審物と思われる』モノは展示してはならない」という具体的な規定が設けられていたのだろうか?
その場合、ホール管理者が「不審物と思う」のであれば、そもそも展示できないし話し合いの余地もないと思われる。
反対に、そのような条件が何もないのであれば、ホール管理者に何を言う権利があるだろうか?
推測としては、その中間のような中途半端な何かの規定が存在したのではないか?という事だが、結局、その部分が不明な記事なので、これ以上考えを進める事はできない。


あくまでも、写真と記事を見た限り、気になった点に過ぎない・・・しかし、最終的に両者で落としどころを作れたという事の中に、上記2点についての議論が交わされたのかどうか、気になるところではある。