関係性の美学について
現代アートの構成要素が「批判性」と「表現」であれば
リレーショナル・アートの構成要素は「批判性」があり
その「表現」として参加を促す仕掛けがあると考えられる。
批判・批評/テーマ・コンセプト⇒メッセージ化⇒表現/イベント?
何が「芸術性」として認めれるのかが問題
また、「美学」というからには「美しさ」は何に宿るのか?という
素朴な疑問が残る。
考えうる可能性としては、その「表現」つまり、「仕掛け(方)」に
対して、評価しえる「美」が存在するのだろうか?
リレーショナル・アートにおける表現の難しさは
そのテーマ・コンセプトが明快に伝わらなければ
「何のイベントなの?」で終わってしまうし
反対に、その部分を明確化すれば、その批判性が反転し
「説教くささ」「偽善的」となりえると思われる。
また、その「参加型」というのが、またやっかいだ。
参加しないで、外側から「見る」ことも、またその作品を体験する
1つの手段としてあると思われるが
最終的な完成形としては、参加する事における体験の総体として
成り立つ作品だとしたら、個人的にはすごく「強制的」だと感じる。
つまり、参加する方法を指定されているという事は
作品との距離感を参加者が決められない、という事だから。
古典的な表現(批評性の低い、表現そのものの追及をその可能性としているもの)以外の
現代芸術の多くは、見る(観る)、聞く(聴く)、触る、踊る?などの
行為を観者(参加者)に委ねるものが多いと考えられる。
そして、観者(参加者)のベースとなる教養、体調、そのタイミングの気分などで
対象となる作品との距離感を変える事が可能という事。
では、参加型の作品においては、同じアプローチが可能なのだろうか?
また、参加する事が作者の批評性を認めない、または違う解釈のもとに
参加する事が可能なのだろうか?
例えば、昨日、紹介された田中功起さんの絵画を持って街を行進する作品
あれに「参加する」という事が、参加者にとって一方的な意味付の中に
強制参加させられている事にならないのか。
また、途中で参加したり、離脱したり、まして自分のペースで行動したり
する事が可能なのだろうか?
そういう事ができないのであれば、参加型のそれは「単なるイベント」であって
作品ではないのではないか?という感じもしてくる。
そもそも、参加型の作品自体、もはやそんなに流行っていないのではないか?
とも感じてはいるのだけれども
どうなのだろうか?
リレーショナル・アートが出てきた背景としてインターネットをはじめとした
バーチャルなコミニュケーションとリアルな世界でのコミュニティの分断がある中
「関係性」への批評行為として、リアルな場の提案というカタチで
1990年代を中心に、参加イベント型の表現が出てきたものと考えられる。
そして、2014年現在、その批評性が何をもたらしたのか。
また、批評性+表現=芸術としての普遍性を持って、評価の対象となり得ている
作品はあるのだろうか?
ちょうど、森美術館で「リー・ミンウェイとその関係展」をやっているが
2010年代という時代の中で、関係性の美学が成立しえるのか
また、今後のアート界において、可能性として残り得るのかどうか
この目で見て、参加し、体験し
またキュレータートークなどの解説を通して
自分自身の疑問に対する答が得られるかどうかを考えたい。